1月27日 弔い
母の友人が亡くなった。
特に生存率が低いと言われる病にかかり、その生存率の通りに亡くなってしまわれた。母の一番とも言える友人で、本当に痛ましい。そして、母と同じ年齢の人が亡くなるのは娘としても感じることがあった。
母の友人を仮にAさんと呼ぶとする。友人の娘として、Aさんには本当に可愛がってもらった。どこかへ旅行へ行った折には、必ず私に可愛らしいお菓子や雑貨をお土産として買ってきてくれた。親戚や祖父母に優しくしてもらった記憶が薄い自分にとって、Aさんは、両親を除いた数少ない優しい大人だった。
小学校の頃には、夏休みになるとよく母と二人でAさんの家を訪ねた。兄弟のいない私にAさんは気を使ってくれたのか、あらかじめたくさんのおもちゃを買って用意してくれていた。Aさんと母と私で人生ゲームを何度もやったことが記憶に残っている。カレーを作ってくれたことも。Aさんの家は一戸建てで、マンション暮しの私にはとても新鮮なものだった。1階には和室が一部屋あり、少し階段を登ると中二階のようなところに、キッチンとお風呂の部屋がある。二階はもう一部屋広い和室があり、もう一つが洋室だった。壁にはびっしりと本棚と本が並べられていたことを思い出した。いくつか本を貸してもらったが、どのようなタイトルか、内容はもう忘れてしまっていた。
小学校を卒業し、中学に入学してやれ高校受験や、やれ大学受験にかまけ、私はAさんに会うこともほとんどなくなり、夏になってもあの家に遊びに行くことはなかった。結局、去年の夏、母とお見舞いに行って数年ぶりの再会を果たしたあの日が最後になってしまった。当時私は就職が決まっていなくて、そんなことを笑い話にした気がする。それ以上会いに行くことはなかった。元々Aさんにとって私は友人の娘という微妙な立ち位置だし、しょっちゅう会いに来ても困るだろうと思っていた。母や友人たちと過ごす時間に水を差すのも無粋な話だ。けれど、人間は愚かなもので、失ってから後悔する。しかも、数歩先の未来がどんなものであるか、私には確かに見えていたのに、だ。
私は一つだけ後悔している。
小学生のある夏の日、私と母はAさんの家に泊まりに行った。私はお泊りに当時とても大切にしていた犬の小さなぬいぐるみを持って行ったのだが、それを忘れてきてしまったのである。(大切にしているならば忘れるな、という指摘は最もだが、私は何故か外にぬいぐるみを持っていくとよく忘れてしまう)それを伝えると、翌日Aさんは私の犬のぬいぐるみを持ってきてくれたのである。仕事終わりですぐに家に帰りたいだろうに、近くの駅までわざわざ。私はその時とても嬉しかった。
そんな昔のことを思い出してしまった。もう一度ちゃんとお礼を言えばよかった。亡くなってからそのことをようやく思い出したのだ。私は救われない気持ちで、あの時ぬいぐるみをかばんから取り出して私に渡してくれたAさんの姿を忘れられずにいる。
どうか、どうか安らかに。そう強く願う。
1月11日 結婚
よしもとばななの『イルカ』を読んで、女の生き方や結婚、子どもを産むことについてうんうん唸りながら考えていたら、少し年上の先輩が数人がめでたくも今年中に結婚すると立て続けに報告していて余計に不思議な気持ちになった。
24や25は現代で言えばちょっと早婚であると言えるけれど、決しておかしいことではない。法律では婚姻を結ぶことができる16歳になった時、私はこの16歳という年齢に何の意味も感じていなかったけれど、今年23歳になる私は、年齢というものがとても重たく感じられる。空想、あるいはもう妄想ともいってよかった結婚や出産という人生の節目が、一挙に迫ってくるように思える。周囲の知人が全員そうである、ということは決してないが、今付き合っている人と何歳で結婚して、何歳で子どもを産む、それから親の介護にまで話が及ぶと、私は来るところまで来てしまったな、という思いに途方に暮れる。
私は、結婚や出産それ自体に(現状であるが)、それほど執着がない。残念ながら私は独りがとても好きなのと、面倒くさがりなので、周囲の結婚で動揺することはあるだろうが、婚活!婚活!とあくせく走り回るエネルギーはきっと将来湧き出てこないのだと思う。(もし30歳未婚の私がこの記事を見たら、笑い飛ばしてください)
ただ、好きな人と力を合わせて生活していくことにとても魅力を感じる。社会が次々と変化していく中で、婚姻の形が変わらないはずがない。ここで話を膨らますことはしないけれど、私は別居婚も事実婚も同性婚も、他者を害さない、という責任を負うならば、素敵なことだと思う。男の人も家事をたくさんすればいいし、女の人もちょっと踏ん張って仕事をしてもいい。もちろん愛だけでやっていけないこと、生活をすることによって関係性が悪い方向に変容するかもしれないリスクも考える。それでも私は好きな人と互いのパートナーシップをはぐくめたらいいと思う。理想論だけど、それが許容される社会を作ることができたらいいと思うのだ。
私は結婚するのかもしれないし、結婚しないのかもしれない。でも、好きな人が眠っていたら布団をかけてあげたい。好きな人がお腹をすかせていたらたくさん食べさせてあげたい。好きな人が悲しい時はただそばにいたい。好きな人の人生に自分の存在を認めてほしいのだ。その願いが叶い、周囲にそのことを示すことができるのが、結婚というものだと、現在は理解している。ただ、まだまだ幼い私は不確定な未来を怖がりながら、ただただ恋人のそばにこれからもいられるように祈ることしかできないのだ。
1月3日 2019年100の目標
- 自分を許す
- 自分を好きになる
- 合わない人と付き合い続けない
- そばにいる人を大切にする
- ゆっくり、穏やかに話す
- 怒りっぽい性格を少しマシにする
- 自分の冷たさと優しさを理解する
- 心を開かず、孤独でいることを誇る
- 心を許せるなら、とことん素直に
- 自立し、生活をしていく
- 自分とは何か、を問い続けることを諦めない
- 恋人と仲良く過ごす
- 誠意を何よりも大切にする
- 素直な気持ちを伝える
- スキンシップを忘れない
- 拗ねずに甘える
- 着物デートをする
- 温泉旅行に行く
- 名古屋旅行に行く
- プールに行く
- プラネタリウムを見に行く
- ライブに行く
- 焼肉を食べる
- 鍋を食べる
- 夜通しゲームする
- 夜通し語り合う
- 将来のことを語り合う
- 一緒にたくさん写真を撮る
- 手紙を書く
- 手料理を振舞う
- 差し入れをする
- 二人でべろべろに酔っぱらう
- おそろいのものを楽しむ
- 酔っぱらったら電話をする
- 職場の人の顔と名前を早く覚える
- 得意なことと苦手なことを早く知る
- 尊敬できる人を見つける
- 失敗しても凹みすぎない
- お酒での失敗をしない
- 嫌いな人は陰でぼろくそに言う
- 初任給で家族にごちそうをする
- お給料で家族にプレゼントをする
- お給料で恋人にプレゼントをする
- 衣服のしわ、汚れに注意する
- 脱毛に行く
- 髪の毛をすぐ乾かす
- 似合う髪型を模索する
- お風呂上り、体の保湿を怠らない
- リップクリームを塗る
- 美容院に定期的に行く
- 服は熟考して買う
- 化粧品を何となくで買わない
- 指輪のクリーニングを忘れない
- イルビゾンテの革製品を買う
- かわいい腕時計を買う
- 起きたらカーテンを開けて朝日を浴びる
- 毎日クイックルワイパーをかける
- お菓子作りに凝ってみる
- 料理のレパートリーを増やす
- 野菜をしっかりとる工夫をする
- 靴下かスリッパで寒さ対策
- 可能な限りお弁当を作る
- 家計簿をつけてお金の管理をする
- 年間50万貯金を目指す
- 理想体重に近づく
- 階段をできるだけ使う
- 2キロ余裕で走りきれる体力をつける
- ちょっとした筋トレを続ける
- 自転車を買って遠出する
- 遺書を書く
- 図書館に通いつめる
- 絵を楽しんで描く習慣をつける
- 絵具やマーカーを使い、色彩センスを磨く
- LINEスタンプを作ってみる
- 忙しくても美術館を巡る
- 日々に読書する余裕を持つ
- 読書メーターに記録する
- 哲学書に挑戦する
- 世界史をもっと勉強する
- ブログを書いて思考を整理する
- 個人誌を作る
- 短編を10本書く
- 簡単な日記を毎日つける
- 思いついたことをメモする習慣をつける
- 詩を書いてみる
- 歌を詠む
- 短歌賞に応募する
- 歌集を読み込む
- 和歌に触れる
- aikoに会いに行く
- aikoのCDを集める
- ipodの整理をする
- 山に登る
- おいしいラーメン屋を開拓する
- お気に入りのカフェを見つける
- キルフェボンのケーキを食べる((
- 定期的に一人映画に出かける
- SNSから少しずつ離れてみる
- 京都について勉強する
- ぬいぐるみを愛でる
1~11が自分について、12~34が恋人、35~43が仕事、44~55が美容とおしゃれ、56~71が生活と健康、72~100が趣味とお出かけ、というように考えて目標を立ててみた。恋人に関してはそれだけで100個やりたいことリストができそうだった
12月27日 人間関係
昔から私は人間関係を築くのがへたくそだった。
大学の講義で、「人は小学生くらいは自分と他者の境界が薄く、同一視しがちである」ということを習ったが、私は小学2年生の時にはもう自分と他者が全く違う存在であるということをうっすらと自覚していた。というのも、うまく友達を作れなかったのである。小学生と言えば、特に低学年はもう同じクラスに所属するだけである程度仲間、という意識が生まれる。けれど私は、うまく友達を作ることができなかった。どうやら担任の先生にもそのことを相談していたようで、別室でカウンセリングしてもらったことをよく覚えている。その担任の先生は若いけれどよくできた先生で、話した内容は覚えてないけれど、何となく気持ちが楽になったように思えた。私はクラスの女の子たちとうまく話せなかった。他の子のようにうまく先生に甘えられなかった。孤独という感情を知ったのは、比較的幼いころだった。
しかし、高学年になるごとに自然に話せる人は人並みに増え、友人も多くはないけれど、生活に支障がないくらいには作ることができた。ようやく人間関係をうまくやるコツをつかんだのだ、と思えた。今から思い返せば、小学校中学年から高学年が、比較的うまく社会になじめていたのだと思う。お遊びのようなものだが、生徒会もやっていた。もちろんスクールカーストで言えば下から数えたほうが早かったけれど。私は暗いし、クラスのリーダーは怖いし、嫌いな女の子はたくさんいたし。
私の中学校は小学校のメンバーがそのまま持ち上がるので、ほとんど環境は変わらなかった。小学校のクラブ活動で仲良くなった子たちと同じ部活に入り、そこそこ楽しい日々を送った。美術部は私にとっての楽園だった。中学1年、入学して私はクラス委員長になった。立候補がおらず、推薦で仕方なく、ということだった。恐らく小学校で生徒会をしていたからだと思うし、悪い気はしなかったので、引き受けた。中学1年は小学校気分が抜けないまま過ぎ、2年に進学した時の時だった。私は委員長をやめた。正確に言うと、必要が無くなったのである。運動部の、友人がたくさんいる可愛らしい女の子が委員長になった。今までは「真面目」な委員長が必要だったけれど、これからはクラスの子たちと仲が良い人気者が必要とされているんだな、とぼんやり思った気がする。その時の感情はあまり覚えてないけれど、さもありなん、と納得した記憶がおぼろげにある。そんなこんなで私はクラスのみんなのための仕事をすることを辞めて、ひたすら部活と塾での勉強に励んだ。この頃から特に、クラスの子とうまくコミュニケ―ションが取れなくなったように思う。見えないけれどそこにある、はっきりした壁が私を話せなくした。なじみのある友人と、教室の端でぼんやりすることが増えた。
私は中3の時にどんどんと志望校を変えていた。内申の為に精神と身体を削って、3番手から2番手へ、それから1番手の高校を目指せる成績を取れるよう死ぬ気で勉強した。私は頭が良くなかった。塾でも一番成績がいいクラスに行けなかった。周囲の友人は私よりずっと頭がよかったし、そのことに死ぬほど苦しみながらも、憑りつかれたように勉強した。そんな時、塾の同じ学校の女の子に1番の高校を志望すると告白した時に言われたことを覚えている。「確かに、某高校より~さんに合ってそう」、私は1番手校を志望する前は2番手のところを考えていて、その高校は所謂、運動ができて勉強もできて明るく行事を楽しむ!という子が目指すようなところだった。1番手校の私の母校は実情はともかく確かにその学校よりも地味なイメージがぬぐえない。なるほど、周囲の私の評価はこうなのか、と傷つく前に納得してしまった。私はいつまでも「真面目」だった。そんなことはないのだけれど、真面目で、しっかり者だった。
高校に入学し、私は小学2年生と中学2年生に逆戻りした。私の高校は地味だなんてそんなことはなく、各地で本当に賢い、と言われている子たちが集う高校で、私は明らかに浮いていた。私は本当に悲しい程頭が悪かった。その恐ろしい程のズレを15歳の私は受け止められなかった。話せなくなった。私は本当に何も話せなくなった。高校1年の時、私は風邪で休んでもクラスメイトに一言ノート見せてくれないかな?ということもできず(今も人に何かを頼むのが苦手)、授業についていくことができなくなるのを恐れて、部活にも入らず馬鹿みたいに勉強した。あの時は本当にひどい顔をしていたと思う。救いは、休み時間中に行くことができる図書室と、体育の時だけに会える、唯一波長が合った他のクラスの女の子だけだった。ひたすらに地獄だったが、私は学校に行き続けた。真面目だったからだ。けれど、その苦痛を乗り越えたからこそ出会えた人もいて、少しずつ状況は変わっていった。部活をしていないということで、生徒会の先生に声をかけられた。友達も少ないけれどできた。好きな人も、恋人もできた。相変わらず3年間クラスになじめないままだったけど、クラスの人は嫌いではなかった。うまく関係を保てないならそれなりにやるべきこともあったろう、それができなかったことは後悔でしかないが。
そんな後悔を抱えて大学に進学。高校のときのようにはなるまいと、さもコミュニケーションがあるかのように振舞う作戦に出る。大学で身に着けたことは、「コミュニケーション能力があるかのように一瞬見せかける」ということに尽きるのかもしれない。とにかく隣の人と話してみる。授業では自分から話を振る、サークルに入った同期と積極的に話した。私の大学生活はバラ色か?と思いきや、少し精神的に追い詰められることが夏から秋にかけて立て続けに起こってしまう。詳細には書けないけれど、それは、高校生活で積み上げた人間関係と、人への信頼感をすべて崩してしまうような出来事だった。イタさ全開の19歳の私はもう何もかもが嫌になり、「人も人間関係もすべてまがい物だ」との思考に支配された。サークルもやめた。友達を作るのもやめた。遊びに誘われても行かなくなった。私はキャンパス内でたった一人だった。けれど、大学は高校のように一人でいたってつつかれることはなかったので非常に楽だった。真面目だったので一度も単位を落とさなかった。そのくせ、本当にダサいことに逆に私の心情を慮るそぶりを見せる人間に簡単に依存した。自分を大切にすることがどういうことかわからなくなったころ、心が限界になった。そんな時に私を救ってくれたのは悲しいことにやはり人だった。私を孤独から救い、孤独にし、やはり孤独から救ってくれた人だった。
もうすぐ大学卒業を控えて、私は大学時代中二病を全開にしていた、いや、人と関わる努力をしなかった代償としてちょっと困ったことに直面している。コミュニケーションをとる事がうまくなったのは表面上だけで、本質は高校1年生の時から何一つ変わっていないことに最近気づく。それは果てしなく絶望だけれど、ここまで変わらないなら仕方がないかと納得しつつある。小中高、大学と私はダメダメだった。社会に出てもきっとダメダメなんだろう。努力することはやめないつもりだけど、きっと小学生の私も、中学生の私も、高校生の私も、そして大学生の私も救うことができないのだと思う。
12月19日 顔
人は見た目が9割であると誰が言ったんだろう、その言葉が刺さるのは一種の真理だからだ。
私は残念ながら、美しくない。自分を客観視することは難しいけれど、さすがに22年も生きていればよくわかる。
私はごく最近まで、自分が美しくない、ということを意識的に考えたことはなかった。人並みに、美しい人を見れば、いいなぁと思うことは当然あったけれども、自分の美醜について深く思いが至ることはなかった。
きっかけは大学三年生の時に親しくしていた人の言葉だった。どんな話の流れだったかはっきりとは覚えていない。私がふざけて「私はかわいいから~」という戯言を口走った時に、彼は言った。「でも絶世の美女ってわけじゃないじゃん」、その言葉が自分でも訳が分からないほど胸に刺さった。彼はとてもかわいらしい女性芸能人の熱狂的なファンだ。その人のことを想定してそういったのであろう。
もちろん、当たり前ながら絶世どころか、美女ですらない私にとってその言葉は正しい。もう正しすぎるくらいだ。それでもわずかながらも好意を寄せている人にそう宣告されてとても傷ついた。初めて気づいたのだが、私は結構、自分の容姿に自信がない。これから先も、できる限り頑張るけれど、それでも壁にぶつかり続けるのだろう、と考えると何とも言えない気持ちになる。
顔が美しい人は、実は少し、いやかなり怖い。気おくれする。幼いころのトラウマからか?自分で世界を隔ててしまっているからだ。美しさは勇気であり、自信であり、生そのものである。
「美しさ」を真剣に問う『累』という作品に影響されたのかもしれない。
でもやっぱり奇麗な方が得だよなぁ
12月9日 お酒
諸君、わたしはお酒が好きである。
とくにビールが好きで、友人が皆カクテルを嗜む中気にせず生ビールを頼む。ビールの好きなところは、料理の美味しさを引き立ててくれること。イラストレーターのナガノさんが「ビールはお酒界の麦茶」とおっしゃっていたが本当にその通りだと思う。あとは柑橘系のカクテル、果実酒が好きだ。ワインと日本酒はまだ開拓できていない。
そして私は酒に弱い。一杯で酔えるお手軽女子である。一度その弱さゆえに大失態を起こしているがこれは割愛。大学時代に一度失敗しておいてよかったと思うけど、恋人に心配されたのでもうしません。ビールハイボールをチャンポンし続けた先に地獄はある。二日酔いは本当に辛いんだなあとお布団の中でうなされてました。
お酒を飲むのは楽しい、若干の理性を残しつつ、普段言えないことを言えるのも、できないことができるようになるのも素敵だ。そして恋人と飲むのが一番楽しい。毎度毎度送らせてしまうのが申し訳ないけど、私はお酒を飲むなら絶対恋人とがいい。
お酒はほどほどに、好きな人とが一番。
11月29日 就職活動
就職活動を終えたのは、8月の末だった。
私が希望していた業界は少し変わっていて、準備がかなり必要な上に、内定が出るのが遅い。それなのに私は準備期間がほかの人よりもずっとずっと遅く、非常に焦りながら就活に参戦した。元々茶色っぽい髪を黒く染めたのは2月の終わりだった。
志望業界以外に3個ほどの企業を受けたが、2つは一次面接で落ちたし、1つは最終面接で撃沈した。正直言って、何もやる気が起きなかった。けれどとても緊張したことだけは覚えている。けれど結局、私は志望業界の面接に一度も落ちなかった(面接前の段階で落ちたものがあることは内緒だ)。有難いことに、東京と、京都と、地元での内定をもらって、京都で暮らすことを選んだ。
就活中は本当に怖くて、自分が来年働けなかったらどうしようと何回も思った。実際辛い日々だった。窮屈で暑いスーツを着て、毎日毎日炎天下の中オフィス街を歩くのは気が滅入った。面接で頓珍漢な受け答えしたことがいつまでもフラッシュバックして、体重も増えた。その分、初めて内定を得た時の解放感は忘れられず、そのまま迷惑にも恋人に電話を掛けた。
けれど、私が予想していなかったのは就活を終えた後のことだった。私は、体が動かなくなった。就活を終えたらしたいと思っていたことはたくさんあったのに、何もできない日々が続いた。私生活で辛いことが重なったことも要因であろうが、毎日毎日、日が高いうちは家で眠ることしかできなかった。そして、夜は眠れなくなった。眠れないのでお酒を飲んだ。3回に2回くらいは、お酒を飲んだらよく眠れた。
燃え尽きたんだと思う。私は賢くなく、ただ頑張ることしかできない。自分の限界もわかっていなかった。人とうまく関われない私が、人とうまく関われる人間を半年間も演じれば、そうなっても不思議ではない。眠れる昼と眠れぬ夜を繰り返して、自分がどんな人間であるか、就活中よりも真剣に考えた。私の永遠のテーマなのだと思う。
就活は二度としたくない、私はやっぱり自分のことをアピールするのは苦手だし、明るくないし、人と話すのは得意ではないから。