鴨川に寄せて

論理性などありはしない 自分を解くのみ

12月27日 人間関係

昔から私は人間関係を築くのがへたくそだった。

大学の講義で、「人は小学生くらいは自分と他者の境界が薄く、同一視しがちである」ということを習ったが、私は小学2年生の時にはもう自分と他者が全く違う存在であるということをうっすらと自覚していた。というのも、うまく友達を作れなかったのである。小学生と言えば、特に低学年はもう同じクラスに所属するだけである程度仲間、という意識が生まれる。けれど私は、うまく友達を作ることができなかった。どうやら担任の先生にもそのことを相談していたようで、別室でカウンセリングしてもらったことをよく覚えている。その担任の先生は若いけれどよくできた先生で、話した内容は覚えてないけれど、何となく気持ちが楽になったように思えた。私はクラスの女の子たちとうまく話せなかった。他の子のようにうまく先生に甘えられなかった。孤独という感情を知ったのは、比較的幼いころだった。

しかし、高学年になるごとに自然に話せる人は人並みに増え、友人も多くはないけれど、生活に支障がないくらいには作ることができた。ようやく人間関係をうまくやるコツをつかんだのだ、と思えた。今から思い返せば、小学校中学年から高学年が、比較的うまく社会になじめていたのだと思う。お遊びのようなものだが、生徒会もやっていた。もちろんスクールカーストで言えば下から数えたほうが早かったけれど。私は暗いし、クラスのリーダーは怖いし、嫌いな女の子はたくさんいたし。

私の中学校は小学校のメンバーがそのまま持ち上がるので、ほとんど環境は変わらなかった。小学校のクラブ活動で仲良くなった子たちと同じ部活に入り、そこそこ楽しい日々を送った。美術部は私にとっての楽園だった。中学1年、入学して私はクラス委員長になった。立候補がおらず、推薦で仕方なく、ということだった。恐らく小学校で生徒会をしていたからだと思うし、悪い気はしなかったので、引き受けた。中学1年は小学校気分が抜けないまま過ぎ、2年に進学した時の時だった。私は委員長をやめた。正確に言うと、必要が無くなったのである。運動部の、友人がたくさんいる可愛らしい女の子が委員長になった。今までは「真面目」な委員長が必要だったけれど、これからはクラスの子たちと仲が良い人気者が必要とされているんだな、とぼんやり思った気がする。その時の感情はあまり覚えてないけれど、さもありなん、と納得した記憶がおぼろげにある。そんなこんなで私はクラスのみんなのための仕事をすることを辞めて、ひたすら部活と塾での勉強に励んだ。この頃から特に、クラスの子とうまくコミュニケ―ションが取れなくなったように思う。見えないけれどそこにある、はっきりした壁が私を話せなくした。なじみのある友人と、教室の端でぼんやりすることが増えた。

私は中3の時にどんどんと志望校を変えていた。内申の為に精神と身体を削って、3番手から2番手へ、それから1番手の高校を目指せる成績を取れるよう死ぬ気で勉強した。私は頭が良くなかった。塾でも一番成績がいいクラスに行けなかった。周囲の友人は私よりずっと頭がよかったし、そのことに死ぬほど苦しみながらも、憑りつかれたように勉強した。そんな時、塾の同じ学校の女の子に1番の高校を志望すると告白した時に言われたことを覚えている。「確かに、某高校より~さんに合ってそう」、私は1番手校を志望する前は2番手のところを考えていて、その高校は所謂、運動ができて勉強もできて明るく行事を楽しむ!という子が目指すようなところだった。1番手校の私の母校は実情はともかく確かにその学校よりも地味なイメージがぬぐえない。なるほど、周囲の私の評価はこうなのか、と傷つく前に納得してしまった。私はいつまでも「真面目」だった。そんなことはないのだけれど、真面目で、しっかり者だった。

高校に入学し、私は小学2年生と中学2年生に逆戻りした。私の高校は地味だなんてそんなことはなく、各地で本当に賢い、と言われている子たちが集う高校で、私は明らかに浮いていた。私は本当に悲しい程頭が悪かった。その恐ろしい程のズレを15歳の私は受け止められなかった。話せなくなった。私は本当に何も話せなくなった。高校1年の時、私は風邪で休んでもクラスメイトに一言ノート見せてくれないかな?ということもできず(今も人に何かを頼むのが苦手)、授業についていくことができなくなるのを恐れて、部活にも入らず馬鹿みたいに勉強した。あの時は本当にひどい顔をしていたと思う。救いは、休み時間中に行くことができる図書室と、体育の時だけに会える、唯一波長が合った他のクラスの女の子だけだった。ひたすらに地獄だったが、私は学校に行き続けた。真面目だったからだ。けれど、その苦痛を乗り越えたからこそ出会えた人もいて、少しずつ状況は変わっていった。部活をしていないということで、生徒会の先生に声をかけられた。友達も少ないけれどできた。好きな人も、恋人もできた。相変わらず3年間クラスになじめないままだったけど、クラスの人は嫌いではなかった。うまく関係を保てないならそれなりにやるべきこともあったろう、それができなかったことは後悔でしかないが。

そんな後悔を抱えて大学に進学。高校のときのようにはなるまいと、さもコミュニケーションがあるかのように振舞う作戦に出る。大学で身に着けたことは、「コミュニケーション能力があるかのように一瞬見せかける」ということに尽きるのかもしれない。とにかく隣の人と話してみる。授業では自分から話を振る、サークルに入った同期と積極的に話した。私の大学生活はバラ色か?と思いきや、少し精神的に追い詰められることが夏から秋にかけて立て続けに起こってしまう。詳細には書けないけれど、それは、高校生活で積み上げた人間関係と、人への信頼感をすべて崩してしまうような出来事だった。イタさ全開の19歳の私はもう何もかもが嫌になり、「人も人間関係もすべてまがい物だ」との思考に支配された。サークルもやめた。友達を作るのもやめた。遊びに誘われても行かなくなった。私はキャンパス内でたった一人だった。けれど、大学は高校のように一人でいたってつつかれることはなかったので非常に楽だった。真面目だったので一度も単位を落とさなかった。そのくせ、本当にダサいことに逆に私の心情を慮るそぶりを見せる人間に簡単に依存した。自分を大切にすることがどういうことかわからなくなったころ、心が限界になった。そんな時に私を救ってくれたのは悲しいことにやはり人だった。私を孤独から救い、孤独にし、やはり孤独から救ってくれた人だった。

もうすぐ大学卒業を控えて、私は大学時代中二病を全開にしていた、いや、人と関わる努力をしなかった代償としてちょっと困ったことに直面している。コミュニケーションをとる事がうまくなったのは表面上だけで、本質は高校1年生の時から何一つ変わっていないことに最近気づく。それは果てしなく絶望だけれど、ここまで変わらないなら仕方がないかと納得しつつある。小中高、大学と私はダメダメだった。社会に出てもきっとダメダメなんだろう。努力することはやめないつもりだけど、きっと小学生の私も、中学生の私も、高校生の私も、そして大学生の私も救うことができないのだと思う。