鴨川に寄せて

論理性などありはしない 自分を解くのみ

3月18日 聲の形

聲の形」を見た。劇場で2回、ブルーレイを買ってから3回見たことになる。毎回違った発見があるのがこの映画のすごいところである。

私はいつも硝子が窓から飛び降りようとした後、結絃と西宮母が部屋に飾ってあった、死骸の写真たちを剥がすシーンで涙でしてしまうのだけど、今回はまた違ったシーンで涙が出た。序盤の、硝子が転校する前に将也と取っ組み合いの喧嘩をするシーンである。なぜこのシーンにグッときたのか、自分なりに考えてみた。

今回見たことでわかったことがある、この作品の登場人物は、それぞれ絶望的といっていいほどに、コミュニケーションの型、みたいなものが違う。例えば硝子と植野は絶望的に相性が悪い(と思う)。植野は一見すると乱暴で、相手の言葉を聞かないように思えたけれど、そうではなくて、自分の気持ちを少々乱暴ながらもはっきり表明して、時にはぶつかりながらも他者と関わっていこうとする、というのが彼女のコミュニケーションの型であるようだ。だから、硝子に対しても観覧車のシーンで、ちゃんと自分の気持ちを表明するように言った。植野のコミュニケーションの型で硝子にコミュニケーションを取れと強いたのである。だけれど、硝子はそうしなかった。というのも、硝子のコミュニケーションの型は植野と正反対とも言える。自分の気持ちを押し込めることで、周囲と協調していくあり方を取っているのである。これはもちろん彼女の持つ障害と、それによって被った人の悪意も大きく影響しているだろうが、硝子の根っこ、性質なのだろう。硝子は植野の土俵に上がることができないのである。相性がひたすら悪い。自殺未遂後、植野が「自分の頭の中でしか物事を考えられねー奴」と硝子を思い切り詰ったが、まさしくその通りなのだ。けれどそれが硝子が必死に生きて生きて、生き抜くための術だったことを、聡明な植野でもなかなか気づくことができないのではないか。人間は、自分のコミュニケーションのあり方を、相手にも無意識に強制しているのかもしれない。私は時に横暴な植野がとても怖い人間だと思ったけど、彼女は彼女のやり方で、ただ真っ直ぐに生きているだけなのだな、と気づくことができた。

高校生の将也も硝子のあり方に近いように思える。自分が時に精神と身体を壊しながらも抱えることによって、なんとか人との関係を保とうとしている。永束は人との距離感が少々ズレているが、人のことを真っ直ぐに見据えようとしている。川井は本当にどうしようもないが、あれはあれで自分の正義を貫いているのだろう。自分を愛して、うまく周囲に合わせていくそのあり方はこの世界で最もサヴァイブしやすい。真柴と佐原は漫画と随分印象が変わっているように思えるので、割愛。

さて、冒頭の話に戻る。なぜ、小学生の硝子と将也が取っ組み合いの喧嘩をするシーンで感動するのか。それは、やはり硝子がむき出しの感情を表出する珍しいシーンだからだろう。(身内である妹に激怒するシーンなどを除くが)硝子が感情を強く表出するシーンは、物語後半を除いてあまりない。将也の胸ぐらを掴んで言った「私だって頑張ってる」という、必死な、硝子のいわば魂の叫びに心を震わされたのだろう。

 

将也は命を賭けた一大勝負によって、少しずつ失われた自己や、関係を取り戻していく。その少しも平坦ではなかった道のりに涙が出る。現実は厳しくて、将也のように自分の行いを省みて、優しい心を持って自分を害するものや罪と戦いながら、それでもなくしたものを取り戻す、ということは本当に本当に難しいことだ。大抵壊れたものは元に戻らない。去った人は帰ってこない。そのことは分かっているけれど、それでも夢を見てしまう。赦されることを。かつて好きだった人たちが、自分を突き放した人たちと再び笑える日々が来ることを。