鴨川に寄せて

論理性などありはしない 自分を解くのみ

0703

私にとって、私にとって文学とは、やっぱり救いだった、それから自分を保つために必要なものだ。ほんとは文学のことがそれほど好きでないことを分かっていても、生きるために必要だった。それは今もきっと変わっていない。

誰も私を知らなくていい、誰も私が文学に生かされていることを知らなくていい、役に立たなくて、不可解なことと言われてもいい。それがとてつもない救いなのだ、他者が私のことを理解できないということは、悲しみではなく、救いであることを私は最近知ったのだ。道化でいよう、空っぽのふりをしよう、私のことなんて、理解しないでほしい。

だから、大事に大事に、誰にも言わずに私は私の救いを守り続けるしかないのだ。

 

私の好きな大人が、貴方は私に似てるからきっといつか大丈夫になるよ、と言った。いつ私は大丈夫になるのかな。

5月1日 恋人

本当は平成の終わりにこの記事を書こうと思ったんだけれど、気がついたらもう時代は変わってしまっていた。お酒を飲み過ぎていて意識を失っていた私を起こし、恋人はスマートフォンに表示された時間を指さした。23:59、あっ、と目が覚めたと同時に、0:00に移り変わる。4月30日の終わり、そして平成が終わる瞬間だった。

恋人と出会ったのは15歳、高校1年生の時だった。同じクラスで、出席番号順で並んだ最初の座席の、隣の席に座っていた男の子。15歳とは思えないほど硬い文章を書いていて、初めは何を考えているかわからない、難しい子だと思った。高校1年生の時の私は拗らせのピークだったので、教室でほとんど誰とも話さなかった。そのため、クラスというよりも何となく入った図書委員で少しずつお互いのことを認識していたように思える。転機は、秋頃だった。私は図書委員の知人に、生徒会をやらないかと勧誘をされたのだ。わけもわからないまま、はいと頷き、新規生徒会役員の顔合わせのために、生徒会室に呼び出されて扉を開けたら、恋人がいたのだ。別に示し合わせたわけでもないけど、知っている人がいてすこしほっとしたことを覚えている。同じクラスだったからだろうか、それとも感覚的にシンパシーを感じていたのか、わからないけれど、なんとなくこの人と頑張っていきたいな、と思った。生徒会活動は忙しく、けれど充実したものだった。うまく人と渡り合っていけない私の唯一の居場所だった。今になっても、他の人にはそうでなくても、私にはこの場所が一番大切だった。友人がいて、後輩がいて、恋人がいる日々、還りたいと思うのはこの場所だけだった。私の幸せと不幸せはこの場所に直結しているのだと、今でも思う。

恋人と恋人になったのは、高校3年生の春だった。高校から少し離れたところにある川のほとりで告白されたのだ。彼の懸命さと、春の夕の風の冷たさをよく覚えている。その日から生徒会を引退して卒業するまで、私たちはずっと恋人だった。正直に言うと、順風満帆な関係性を築けていたか、というとそうではない。今から思い返せば、お互いの気持ちや考えを表明することが不十分だった。好きで好きで仕方がなかったのに、それが数ミリも相手に伝わっていなかった。大学受験や、その先の慣れない生活の中で少しずつ少しずつその歪みは大きくなって、彼と私の心がぼろぼろになったところでお別れを選んだのだった。

今はもう慣れ親しんだ恋人の匂いを知ったのは、再び付き合うようになってからだった。その人の匂いというものは、ぐっと体を寄せないと意外とわからないものだ。私は高校生活の間ずっと彼の近くにいたけれど、匂いを感じる距離には踏み込むことができなかったということである。手をつなぐことしかできなかった、ということを思うと何とも苦々しい。別れてから久々に会った恋人は少し変わっていた。纏っている雰囲気に緊迫したものがなくなって、穏やかになっていた。大きく豹変していたらどうしようかと思ったので安心した半面、泣きたくなった。こんな風に落ち着くまで、どれほど泣いてどれほど自分に鞭打ったんだろう、それを私は助けることも知ることもできなかったのだ。それから昔の自分の余裕のなさと子どもっぽさを呪ったものだった。空白の数年を埋めるかのように、私は恋人のことを知りたいと思った。そしてやはり私は彼のことが好きなのだった。

恋人の好きなところをひたすら書きなぐろうと思ったけれど、とてもまとまりそうにないのでまた書くことにする。もう一度高校時代に戻りたい。制服を着て、朝の教室で話をして、お昼ご飯を食べて、図書室で勉強して、一緒に帰りたい。そんな私の平成の夢は、もう叶わないな。

3月31日 さようなら文学

卒業式の後手渡された成績表。卒業論文の評価が芳しくなくて、それでも怒ったり悲しんだりすることもなくただ、そんなものなのだろうと受け止めるしかなかった自分がいた。晴れ着に身を包んだ同級生に交わることなく、さえない黒スーツでぼんやりと大学構内を歩いた。正直に言ってしまえば、大学に対して一つも愛はない。苦しい4年間だった。

私が文章を書けなくなっていったのは大学1回生の終わりぐらいだったと思う。書くのが好きだから、文学が好きだから、そう思って文学部に入ったけれども、私はどこまでもただの「読者」にすぎないことを痛感したのだ。私は何も生み出せない。何も学べない。レポートが書けない。様々な文学に触れても、優れた感想も、新しい発見もない。今まで書くことに苦労しなかった私の大きな大きな挫折だった。私はどんどん怖くなって、ひどいときには全く大学で人としゃべれなくなったこともあった。文章が全く頭に入ってこないこともあった。言葉が言葉として認識できない。レポートの質も上がるどころか、どんどん落ちていったと思う。

高校生の時は漠然と、好きな文学の勉強がしたいと思っていた。けれど、もしかしたら私は対して文学なんて好きじゃなくて、生きるために文学を好きなふりをしていただけではないか。私は数学も理科も、英語もできなかった。唯一選べたのが、文学部だったのだ。本当は文学も言葉も本も大嫌いなのではないか、そう思うと気が狂いそうになった。

結局文学を研究することを諦めて、「何とか卒論が書けそうだ」という合理的判断のもとに、当時自分が志していた分野とは少し離れたゼミに入った。本当は、ゼミの研究テーマに興味があったかというと、怪しいところがある。私はこの選択を後悔しているけど、こうするしかなかったのだ、という思いは確かなのである。どうしようもなかったのだ。卒論のテーマに自分の好きなことをやれば、きっとまだ好きなものも嫌いになってしまうに違いない。卒論は本当につらかった。自分が文章を書くことに向いていないという事実に嫌と言うほど向き合う作業だったからだ。

何のための4年間だったのだろう。

3月20日 祈り

好きだったパスタ屋さんが2月末で閉店していた。

その店は、高校の最寄り駅から少し歩いたところにある店だった。いわゆるちょっとおしゃれなイタ飯屋で、しかしそれほど高価でなく、緊張せず入れる店だった。初めてその店に行ったのは、高校2年生の時だったように思う。高校の生徒会のメンバーで、女子会だ、と言ってお昼を食べに行った。とても美味しくて、また店の雰囲気も良く、それ以降何度も足を運んだ。母と、同級生と、卒業してからは先生と。先生と行った時は夜で、さくさくとメニューの中からパスタやアヒージョを選ぶその手際の良さに私は驚いた。その頃はお酒が飲める年齢ではなかったので、それっぽいものを頼もうと、ノンアルコールのカクテルみたいなドリンクを頼んだ。恋の話に花を咲かせながら、楽しい時間を過ごした。最期にその店に行ったのは、去年の夏だ。リクルートスーツを着て、大学の同級生にその店を紹介したのだった。私はそこで初めて、大学で出会った人に、自分の恋人の話をした。あれが最後だったのだと思うと、切ない気持ちになる。たくさんの人と、いい時間を過ごした場所が無くなってしまうのは心の一部が無くなってしまうように悲しい。

閉店にがっくりしながら、母と別の喫茶店を訪れた。席に座ると、ふと高校の入学式の日にもこの店に来たことを思い出した。新しい制服に身を包んで、晴れがましい気持ちでいたら、お店の人が「入学ですか?おめでとうございます」と声をかけてくれたのだ。人生の中で、最も希望が満ち溢れていた時だった。喫茶店の外からは川が見えて、川沿いには桜が咲き誇っていて、新しい生活に思いを馳せていた。それからどうしてこんなにも時が経ってしまったのか。私は近々、大学を卒業する。どうかこの店までも潰れてしまいませんように。

私は春になると、失ったものばかり思い出す。高校を卒業してからの私にとって、春は希望どころか絶望の季節だった。世間が浮足立てば立つほど私の心は淀んでいった。だってもう、私を好きだと言い、私が好きだった人はいないのだから、とべそをかきながら桜並木を歩いた事を思い出してしまう。今はそれほどでもないけれど、春はやっぱり居なくなった人の影を見てしまう。春は別れだ。

だからこそ、私はただただ祈る。祈りこそが私にできることで、私のしたいことなのだと最近思うようになった。どうか、私の好きだった人たちが幸せとはいかなくても、心安らかに暮らせますように。親しくなれずとも、短い私の人生の中ですれ違った人たちの未来が明るくありますように。去っていく人が、もういない人が、前に前に進めますように。この先、また繋がることがあっても、もう二度と会えなくても、どうか笑顔でいられますように。

 

憎悪や悲しみも含めて、私は出会った人たちのことを深く愛しています。あなたたちが私のかけらをすべて捨ててしまっていたとしても、私は忘れずに祈り続けます。さようなら、愛しています。

3月18日 聲の形

聲の形」を見た。劇場で2回、ブルーレイを買ってから3回見たことになる。毎回違った発見があるのがこの映画のすごいところである。

私はいつも硝子が窓から飛び降りようとした後、結絃と西宮母が部屋に飾ってあった、死骸の写真たちを剥がすシーンで涙でしてしまうのだけど、今回はまた違ったシーンで涙が出た。序盤の、硝子が転校する前に将也と取っ組み合いの喧嘩をするシーンである。なぜこのシーンにグッときたのか、自分なりに考えてみた。

今回見たことでわかったことがある、この作品の登場人物は、それぞれ絶望的といっていいほどに、コミュニケーションの型、みたいなものが違う。例えば硝子と植野は絶望的に相性が悪い(と思う)。植野は一見すると乱暴で、相手の言葉を聞かないように思えたけれど、そうではなくて、自分の気持ちを少々乱暴ながらもはっきり表明して、時にはぶつかりながらも他者と関わっていこうとする、というのが彼女のコミュニケーションの型であるようだ。だから、硝子に対しても観覧車のシーンで、ちゃんと自分の気持ちを表明するように言った。植野のコミュニケーションの型で硝子にコミュニケーションを取れと強いたのである。だけれど、硝子はそうしなかった。というのも、硝子のコミュニケーションの型は植野と正反対とも言える。自分の気持ちを押し込めることで、周囲と協調していくあり方を取っているのである。これはもちろん彼女の持つ障害と、それによって被った人の悪意も大きく影響しているだろうが、硝子の根っこ、性質なのだろう。硝子は植野の土俵に上がることができないのである。相性がひたすら悪い。自殺未遂後、植野が「自分の頭の中でしか物事を考えられねー奴」と硝子を思い切り詰ったが、まさしくその通りなのだ。けれどそれが硝子が必死に生きて生きて、生き抜くための術だったことを、聡明な植野でもなかなか気づくことができないのではないか。人間は、自分のコミュニケーションのあり方を、相手にも無意識に強制しているのかもしれない。私は時に横暴な植野がとても怖い人間だと思ったけど、彼女は彼女のやり方で、ただ真っ直ぐに生きているだけなのだな、と気づくことができた。

高校生の将也も硝子のあり方に近いように思える。自分が時に精神と身体を壊しながらも抱えることによって、なんとか人との関係を保とうとしている。永束は人との距離感が少々ズレているが、人のことを真っ直ぐに見据えようとしている。川井は本当にどうしようもないが、あれはあれで自分の正義を貫いているのだろう。自分を愛して、うまく周囲に合わせていくそのあり方はこの世界で最もサヴァイブしやすい。真柴と佐原は漫画と随分印象が変わっているように思えるので、割愛。

さて、冒頭の話に戻る。なぜ、小学生の硝子と将也が取っ組み合いの喧嘩をするシーンで感動するのか。それは、やはり硝子がむき出しの感情を表出する珍しいシーンだからだろう。(身内である妹に激怒するシーンなどを除くが)硝子が感情を強く表出するシーンは、物語後半を除いてあまりない。将也の胸ぐらを掴んで言った「私だって頑張ってる」という、必死な、硝子のいわば魂の叫びに心を震わされたのだろう。

 

将也は命を賭けた一大勝負によって、少しずつ失われた自己や、関係を取り戻していく。その少しも平坦ではなかった道のりに涙が出る。現実は厳しくて、将也のように自分の行いを省みて、優しい心を持って自分を害するものや罪と戦いながら、それでもなくしたものを取り戻す、ということは本当に本当に難しいことだ。大抵壊れたものは元に戻らない。去った人は帰ってこない。そのことは分かっているけれど、それでも夢を見てしまう。赦されることを。かつて好きだった人たちが、自分を突き放した人たちと再び笑える日々が来ることを。